お知らせです。カウンセリングのサロンを開設しました!!

 

カウンセリングのサロン開設します。

今年最大の目標であったサロンの開設が着々と進んでいます。

去年会社を立ち上げ、一年後の決算を見て、予算を組み、この夏は物件探しをずーっとしていました。

ネットで調べて、不動産屋さんを訪ねて、交通の便と街のイメージと予算と見比べて内見をたくさんしました。

やはり図面だけでなく現地を見ることが一番楽しいですね。物件を見るの好きなんです。

そして、決まったのが、南青山。最寄り駅は表参道駅。自宅から電車1本できます。

契約をして、荷物入れの日は大安の日を選び、氏神様に参りご挨拶。そして部屋に入り、

清めのお塩を部屋の四隅に置き、この土地と部屋の神様にご挨拶。

これで晴れてスタートです。

ネットで注文した家具を受取ったり、お店をうろついたり、細々としたものを、

自宅と電車で往復して移動したりで結構楽しみながらやりました。

私、事務所開きって得意かも?って思っちゃいました。

今の時代、新規購入だとなんでも届けてもらえるんだなあと改めて気付いた次第です。

車なしで、一人でコツコツとやれちゃいました。

ということで来週からオープンしまーす。

よろしくお願いします! 遊びに来てくださいませ!

今日はモノクロさんのセッションでした。

夏の琉球舞踊のコンクールが終わってから、ずーっとやる気の出ない日々でした。

これって少し休もうよ!っていうサインなのかな?

そう思ってPCに向かう事もなく、ブログもお休み状態の日々でした・・・

ところがモノクロ師匠のセッションを受けたら、なんだか元気が出て、

こうやったブログ書いています。めっちゃハードル下がりました。

今日も亀のごとく、一歩一歩進みまーす!!

その2、琉球舞踊古典芸能コンクールを受けて来ました。

本番コンクール会場は戦場のようでした。

主催の琉球新報社の新ホールの完成は翌年の予定だったので、去年2017年は、会場が那覇青年会館でした。

新人賞の本番1日目は、地元沖縄のAちゃんでした。舞台の支度部屋では各出場者の番号のついた場所で出場者本人を囲んで5~60人がひしめいていた。流石に沖縄特有の高笑いなど無くて、緊張感が漂っていた。私たちは家元に挨拶をしながら、邪魔にならないように遠目に座った。

弁当の買い出しに行ったり、舞台の進行具合を見に行ったりした。Aちゃんは、座の中央に座り、顔を白塗りにされていた。化粧が終わり髪結いが終わり着付けが終わると、いよいよAちゃんの出番だ。舞台に上がるAちゃんが廊下を緊張した顔ですり抜ける。その後を先生と弟子が化粧直しの道具箱を持って追いかける。私たちはそれを目で追いながら、頑張って・・と祈る気持ちで見送った。もう~この気持ちは実感しないとわからないだろうなあ。

ビデオをたくさんの人が食い入る様にみる。見ているこちらも手に汗を握る思い。

Aちゃんが終わって舞台袖から出て来た。みんなに囲まれたら、突然に号泣した~見ているこっちも涙が溢れる。終わってホッとしたよね~

緊張するよね~。ヤバイ自分の場合はどうなるんだろう?

その夜、青年会館の宿泊場所にみんな集合した。それぞれに、衣装にアイロンかけたり、荷物を整理したり、明日本番のM子ちゃんは大先生と特訓が始まっている。私の出番もその次の日なので、一緒に稽古に入った。大先生は、昨日の総合練習で家元に寝かすな!といわれたそうだ!

「今日は何時まで練習する?あなたが決めて!」先生に言われてM子ちゃんは、しばらく考えてから「11時まで練習お願いします。」それで今晩のスケジュールが決まった。5時から11時、普段と同じくらいの稽古時間だが中身が違う、本気度が半端ない。けれど誰も弱音は吐かない。

15カ月の集大成だからだ。もうあとがない。M子ちゃんの出番は明日だ。私の出番はその次。泣いても笑ってもここまで。やるしかない!みんな何も言わず黙々と練習する。「もう1っ回初めから!!」「はいっ」永遠とこれが続いた。

今日はM子ちゃんの出番だ。朝8時から支度部屋の席取り合戦が始まる。M子ちゃんは32番、今日の8番目、支度が進むとだんだん落ち着かない。私がそわそわしてどうするの~M子ちゃんが舞台に上がる時、そっとタッチした・・頑張って・・祈る気持ち。帰って来たM子ちゃんを見たら涙が滲んでいた。思わず私もジーンとなった。

お昼休みになった。舞台で立ち稽古ができる。明日出番の私は急いで舞台に上がり、歩数を数えながら中央に立つ位置の確認をする。舞台上ではたくさんの人がぶつかりそうになりながら、あちこちで踊っている。とそこへ大きな声が飛んで来た。「そこのピンクの人、歩きができてない、もう一度歩いて来なさいー」「えっ!私?」「そうそこのピンクの人、もう一度歩いて見なさい。私が見てあげるからー」

会場中に響き渡る大きな声の持ち主は、高齢の女性の方で、周りの態度から偉い先生みたいだった。私は言われるままにトライしたが、舞台上の人の多さでその先生のOKをもらえないまま舞台を降りた。

するとトイレの前でその方と鉢合わせすることになってしまった。その方は私のピンクの稽古着を見て、「あんたね~諦めずに何回もやりなさい。みんな誰も落とそうと思って言っているんじゃないよー受かって欲しいから言うんだよー」私の手を握って言ってくれた。私は走ってもう一度舞台に上がった。走りながら、ここで恥ずかしがってどうするの、これまでなんのために頑張った来たの!恥じも外聞もなくやってやるーって思いながら舞台に上がって、踊りの踏みをやり続けた。

今日は私の出番。15ヶ月かけてこの日に向って練習して来た。何も考えず、曲に集中してやるだけだ。支度を終え、舞台袖でスタンバイしていたら、先生が濡れたタオルを床にそっと置き、「足袋の裏で軽く踏んで」と言った。舞台で滑り過ぎるのを防ぐためだ。踏みながら、よーしやるぞ!と腹から思った。静かな闘志が湧いて来た。そのあと覚えてない。

午後から男踊りが始まる。準備が早めに終わったので、家元の許可をもらって、舞台衣装のまま4階に行って、大先生に最後の稽古をつけてもらった。先生は快く応じてくれた。舞台が終わると、「炭屋さん、今までの中で一番良かったよー」って言われた。良かったー!

舞台が終わった次の日、私は東京に戻った。私の娘が生まれたばかりの赤ちゃんと二人で待っていたからだ。

東京に戻って2日後の夕方、コンクールの合否のメールが届いた。

「残念でした。」の内容だった。

夕食の最中にもらったメールを見て、私はそのまま自分の部屋にこもった。返事をするのに3時間かかった。

ええっ~!後は言葉がない。舞台から降りたら先生から、今日が一番上手だったと言われた。本当ですか?良かった!

思い残すことはないと思った。なのでまさかの結果でした。信じられない。涙が出ると思ったけど、以外に落ち着いていた。

って言うかどうしても信じられない気持ちの方が強かった。あんなに頑張ったのに、間違えたところはなかったのに。扇もまっすぐだと言われたのに。自分の部屋に入ってずっと考えた。数時間こもった。

さすが組踊が世界遺産に登録されるだけあって、琉球舞踊は格式が高いんだと現地に行って実感した。見た目だけの踊り、にわかつくりの安定感では通用しないんだと、やっと腑に落ちた。これが今の私の実力なんだ。あれ以上は踊れない。あの日は今までの中で一番上手に踊れた。それは確かだ。

でもそれは合格の基準に達していなかったということ。それが今の私の実力。その今の実力を確かに目一杯表現できた。今日が一番上手だと言われたとき、思い残すことはないと確かに思った。それでいいじゃないか。やっと腑におちました。そう思うと、ここまで頑張って来た自分を褒めてやりたくなりました。15ヶ月も良く頑張ったよね~、初めて涙が出た。

受験者の中で自分の子供よりも若い人の中で、一番の高齢で持病持ちで、頑張り屋だけど不器用で、いつもみんなに追いつけず、特訓に耐えられる体力もなく、頑張りすぎると身体が壊れて、足がつって足袋が履けず、ハードな練習についていけず、私だけ休んで、でもこっそり30分ずつ練習に通って。みんなうまくなった行くのに、私だけよろよろで、ピョコピョコでバランス取れなくて、でも最後まで諦めず、粘り強く食い下がって行ったら、やっと男踊りができたというところがコンクールの前日だった。にわかつくりじゃダメだよね。納得。

私よく頑張って来たよね~自分自身を褒めたいと思います。

ここまでこれたのはいい仲間と良き先生に出会えたからだと思います。感謝~

と去年は閉めたのでした。

その時は、また挑戦するなんて思いもよらなかったのです。

つづく

琉球舞踊古典芸能コンクールを受けてきました。

琉球舞踊古典芸能コンクールを受けてきました。

私にとって今年の夏の一大イベントである、琉球新報社主催の琉球舞踊古典芸能コンクールの新人部門を受けてきました。

琉球舞踊を始めて9年目の私が、まさか、古典芸能の登竜門と言われているコンクールを沖縄に何度も遠征して受けるとは夢にも思いませんでした。そしてそのコンクールの新人賞部門の受験者は、沖縄地元で小さい頃から琉球舞踊を習っていて、沖縄芸能の中で育ったような環境の中学高校生が大半でした。大人になってから習い始めた人も何人かいましたが、私のような高齢者はあまり見当たりませんでした。

でもそれは、後から人に言われて、そういえばそうだ!くらいの気持ちで、コンクールに向かっている最中は思いもしないことでした。

今まで、ただ楽しく琉球舞踊を踊っていた私が、コンクールを目指そうと思いたったのは、一昨年の春くらいでした。

コンクールへ向けて熱い思いを2年半もかけて練習を続けていくのにはどんな思いがあったのか振り返ったみたいと思いました。

 

去年の8月にもコンクール受験をしていた。

 

実は去年も沖縄に何度も足を運び、コンクール受験をしていました。

受験者は、同じ琉球舞踊研究所の仲間で、沖縄出身の30代のR子ちゃんと神奈川出身の30代のM子ちゃんと私の3人、

沖縄出身とわざわざ明記するのはネイティブであることも琉球舞踊を極めて行くのに強く影響があることを知ったからです。

琉球舞踊の旋律を身体を使って表現するというのは、完コピすることとは全然違うということを、沖縄に通って、家元の指導を見聞きすることで、何か違う!と肌感覚で感じていくのです。

極めて行くことでしか見えないものに触れることでまた、私の沖縄人のネイティブな何かが蠢いた感じがしました。

私たち3人は、15ヶ月間コンクールに向かって、特訓をしてきました。

私たちの踊りの師匠は、東京で初めてのコンクール生を受け持つことになったので、途中から師匠の師匠もこの特訓に参加して下さって、私たちは、のめり込んで行きました。

夏のコンクールが近ずく、5月ごろからは、毎日のようにどこかで練習をしていて、私の身体は、持病の腎臓の数値が高くなって、主治医の指導も厳しくなって行きました。

整体と針灸治療とカイロプラクティックと、メンテナンスに足繁く通いながら、家族に言うと心配させるので、言わずに、黙々と練習とメンテナンスに通い続けました。

一番辛いのは、練習を続けたいのに、身体がついていけないことです。

足袋を1時間以上履き続けられず、足の指からつってきて激痛が走るのです。そうするともう立っていることもできず、私一人、練習場の片隅の椅子に座り込むしかないのです。

それでも30分くらい経つと足の釣りが収まるので、またみんなの練習の輪に入るの繰り返しでした。

土日の8時間練習には、ついていけず、私だけ、30分ずつ先生のお稽古場に通って練習するという日々でした。

沖縄で初めてのコンクール受験をしました。

去年の7月31日コンクール出場のために私は、沖縄、那覇にいました。

東京からコンクール受験生3人と2人の先生と応援の仲間と総勢7人が沖縄入りしました。

そのまま同じ流派の地元の受験生たちとの合同稽古に参加する。

地元の受験生は、新人賞が中学生のA君(去年落ちて今年2回目のリベンジ)と19歳のAちゃん。他に優秀賞を受ける人が今年はいなくて、その上の最高賞の受験者が3人。東京組も入れると総勢8人の受験者だ。

私たちは体育館みたいな会場で、いつ終わるともしれない合同稽古に打ち込んだ。

会場の中央には、家元を始め、私たちの先生とその先生、総勢10人くらいの先生方が机を前に座り、一人一人の踊りを見ていて、「腰が高い!」「顎下げて!」と大きな声が飛んでくる。

私たちは黙々と衣装を着て準備を進め、曲が鳴ったら次々と舞台に出て踊る。

会場はどこもかしこもクーラーがガンガンに効いていて冷蔵庫の中見たい。

それなのに私たちは、何回も踊るせいか、流れる汗を拭きまくっている。10回くらい踊っただろうか?

私は足がつらないように、レッグウオーマーの中にホッカイロを両足4枚貼り付けた。漢方薬を飲むのも忘れなかった。お陰で足がつらなくてよかった。

気がついたら、夜の10時半にやっとおむすび1個と饅頭1個を口にすることができた。みんなでありがとうございますと言ってマイクロバスに乗り込んだのは11時。やっと1日が終わった。

本番、コンクール会場は戦場のようでした。

つづく

琉球舞踊の発表会がありました。

所属している琉球舞踊研究所の、年に1回の発表会がありました。

舞踊の他に、地謡(じかた)の三線や笛太鼓も入り、本格的な舞台装置の中、たくさんの方に見ていただきました。

私は、夏に受けるコンクールの課題曲の古典舞踊のかしかきと、男踊りの上い口説を踊りました。

舞台裏では、自分の化粧や髪結い、着付けと

押し合いながらの忙しさなのですが、

これもまた回を重ねるごとに上手くなり、互いに後ろ側を支えたり、

帯を締めあったりと、てんやわんやの状態です。

舞台から終わってきた人を拍手しながら労ったり、忙しいけれど充実感満載でした。

踊りは女性ばかりだが、とても仲のいい仲間ばかりで、これも長続きしている理由かなと思います。

年に一度、こういう会があると、みんな必死になって頑張るんだよね~だからやめられないのかも!